LiveReport07






2010.03.27(セット・リスト)

1)比叡山坂本(Scope)
2)宇宙(Scope)
3)深海のいきもの(Scope)
4) さんぽ(Scope)
5) 寺澤ソロ(Scope)
6) 藤中ソロ(Scope)
7)生活カラー(Scope)
8) サクリファイス(Scope)
9) 十二縁起(Scope)
10) ひとの力(Scope)


セイジャクノオト・ライブレポート 小寺 祥文(2010.3.28.)
3月27日夜、吹田市立メイシアター小ホールにて吹田セイジャクノオト委員会(平田理恵子代表)主催による“写真ライブ”セイジャクノオトが行われた。真の意味でプログレッシブな音楽を追求し続けるSCOPEの寺澤、藤中両氏が舞台に投影される写真家武内正樹氏の作品を核とする写真群にインスパイアされた感情をギター・ベースのインプロのみで演奏する、という斬新な試みであった。前例の無いスタイルゆえにオーディエンスの理解の助けとなるよう、事前に全10曲のタイトルと演奏時間のみが記されたプログラムが配られ、冒頭、「本作品には『わたしはどこから来て、どこへ向かうのか』という普遍的テーマがあります。」というメッセージが掲げられた。最初の写真は比叡山麓坂本にある日吉大社の火祭りで、松明のはぜる音や虫の音・声明が低く流れ、我々を宗教的な瞑想へと導くことで始まった。写真は宇宙、深海の生き物と生命の根源である自然の美へと続くが一転、愛らしい少女の写真に合わせたアップテンポの曲を挟み、寺澤、藤中それぞれのソロで変化をつけ、現代社会をイメージする都市の写真で本作品が人間の一生を表すとともに現代文明の「来し方・行方」をも併せてテーマとすることが示された。そして人生・文明の終わりなき転変を「十二縁起」にまとめた上で、負の側面が目立つようになった現代社会での“最後の希望”として「人のちから」を提示してライブは終了した。

セイジャクノオト・ノート1                             
小寺 祥文
SCOPE、プログレというジャンルが本来の“進歩的”という意味を離れ、単にクラシカルで音数や変拍子の多い音楽という一様式に固定化されてしまった感がある中で、後期クリムゾンとともに真に“プログレッシブ”であり続けるバンドが挑戦した新たな世界「セイジャクノオト」についての一私見を述べたい。
写真家武内正樹氏の作品群を核とする写真にメンバー2人がインプロで演奏する、という新たなスタイル…それはオーディエンスをとまどわせる可能性を秘めている。そこで寺澤氏は「ガイダンス」として冒頭に「本作品には『わたしはどこから来て、どこへ向かうのか』という普遍的なテーマがあります」というメッセージを掲げた。
 このテーマはニつの意味を含んでいるのではないか。まずは、ゴーギャンの有名な同タイトルの作品が示すごとく、人間の誕生から死までの一生という生命体としてのライフ・ストーリーである。無邪気な少女の写真を背景とする「さんぽ」、成人後の日常を表す「生活カラー」、生と死の転生をモチーフとする「十二縁起」といった曲名がそれを表すだろう。
 もう一つの意味は人類全体の歴史、換言すれば、“文明の行方”についてである。個人の一生といえ、その人生は彼が生きた時代や文化に大きく規定される。わかりやすく言えば、坂本龍馬は、稀有な才能を備えていたのは確かであるが、幕末の日本に生まれたからこそあのような人生を送ったのであり、彼やその他、名も無き庶民も含めて過去に生きた全ての人類が文明・歴史を創り、そのなかで生まれ、死んでいったのである。寺澤氏の関心が仏教にあることはライブが「比叡山麓に鎮座する日吉大社の火祭りの写真」で始まり、「十二縁起」を経て日吉大社に回帰する、という構成からもわかるが、『資本主義の風景』をかつて制作したSCOPEの問題意識は急激に変化する現代文明とその変化に翻弄される人間にあることはいささかもブレていない。「宇宙」、「深海の生き物」、「オーロラ」、「そら」といった曲名は「人類の母である地球」をイメージすると同時に環境問題を意識して構成されているだろうし、「動画」があらゆるシーンに氾濫する時代にあえて「静止画」にこだわった企画自体が高度情報化社会に対するアンチテーゼであるとみることもできる。動画は静止画より優れているのか?そのコンテンツは動画である必要があるのか?動画を送れる技術ができた、ということに踊らされているだけでないのか?私は科学技術の発達を全否定する者ではないが、「本当に人を幸福にするものは何か」という問だけはもち続けていたい。SCOPEとともに。

セイジャクノオト・ノート2
 私の知人に北村多恵さんというソプラノ歌手がいる。リサイタル等、クラシック界の第一線のみならず学校の教員等多方面で活躍されている方であるが、ここで彼女のことを書くのは彼女が全盲である、というゆえである。彼女は杖も使わず1人で世界中を駆け回っている人であるから、「全盲の歌手」である、という部分のみを強調しすぎることは失礼にあたることを承知の上で彼女について触れてみたい。昨年、神戸のあるチャペルにて彼女が歌うバッハのカンタータを聴く機会があった。その気高さ・神々しさは素晴らしく、その音楽性の秘密は、やはり彼女が「全盲であるゆえに研ぎ澄まされた感性」に因るものと思わずにいられなかった。物事の本質が見えにくくなってしまった今日、「人間にとって本当に必要な(大切な)もの」を見出すためには“雑音”に埋もれた宝石を掘り出す鋭い感性を研ぎ澄ます必要があるが、今、そのためのトレーニングが私たちには求められているのではないだろうか。今回、武内氏が無限に存在する風景から「本質的な要素を切り取った」写真をメディアに、SCOPEは2人という最小限の構成で、“余分な音が一切無い”演奏で我々に上記の問いかけをおこなった。市民が企画し、無料でこのようなライブが開かれ、少なからぬオーディエンスが集うという事実、この国、この時代もまんざら捨てたものじゃない。