Archives vol.03

個人的な音楽のあれこれ・・・

Radioheadの中心から・・・エリックサティ-へ
解龍馬
“OK Computer”、蔦屋というレンタルビデオ屋のCD売り場で、このCDに出くわした。音楽雑誌ぐらい読んで「情報」を収集しておけばいいものを・・・。その手の雑誌には何故だか本屋に出掛けても眼が向かわない性分。専ら、「哲学」だとか、「思想」だとか相も変わらない拘りを持て余し気味だ。全くと言っていいほど、「廻り」の連中、家族だとか、仕事上の仲には、そんなものに関心さえない・・・。それは置いといて、「情報」の収集不足が、たまにいい結果を齎すこともある。行きあたりばったりに、その店内で情報を求めて目に留まったのが、このCDの紹介文だった。書いたのは蔦屋の店員さんだろうか、このCDの紹介が20世紀最高の美しいポップ・ロック・ミュ-ジックとか記してあった。店員さんの方が、下手な「プロ」の批評家より、選択眼があることもある。
そういえば、かなり以前に通っていた個人経営の「レンタル」店の選択眼、審美眼は優れていたのを思いだした。そこには、詳しいバンドの紹介から、どのバンドに似ているか、どの音楽系だとか筆者より詳細に記していた。こういった、「地道」な作業に「好感」と信頼を寄せていた。が、今の時代、「地道」などということは、価値の低い誰にも省みられない面倒な作業だ。流行るはずもないこと、だ。いや、流行ったところで、「審美眼」と言うことの「質」さえ担保出来兼ねるほどの、「大量」性とその結果の「鈍さ」が私を含めて総てに宿っている。
蔦屋は、あの経営者として通勤に自転車を使っているという伝説的な増田某が営む、大型レンタル店だ、そんなところに、審美眼などありもしないだろう。だが、ジャケットの瑞々しさにも魅かれて、おもむろに買ってしまった。
もともとロックは、死んだと言う言葉に直感的な肯定感を持っていた。筆者も年をとったのか。性癖的には建設より破壊を、権威と集団の破壊に魅かれるどうしようも無い陳ねた与太ったガキだった。反体制的な匂いのする音楽が当時ではロックだった。ロックという言葉に、「反体制」が住んでいた。その中でもロックンロ-ルは、ジョニ-・ビ-・グッドやリアリー・ガット・ミ-がガキの反抗の音楽として、また乗れる音楽として頭に残った。そんな何処にでもあるような陳ねた生活で、音楽的にはロックがやっぱり癒してくれる音楽だった。いや、音楽に限らず、破壊的な拗ねた、ぐれた「芸術」などというものが、この世から無くなれば、少しは世の中、こちらを惹き付ける毒々しいものが無く、それに魅かれる自分に気付くこともなく、気楽にやっていけることになるだろうにとも考えていた。それにも係らず、巷には、「音楽」が溢れかえっている。それらはポップであり、クラシックであり、ジャズであり、歌謡曲であり、ロックであった・・・。
時を移して、プログレッシブの音楽に捕われた。プログレッシブ・ファンの御多分に漏れず、キング・クリムゾンとウ゛ァン・ダ-・グラフ・ジェネレ-タ-に狂ったようにのめり込んだ。ジェントル・ジャイアントの構成的ではあるが、流動的な運動する演奏に聴き入った時もある。しかしながら、時を移して、それ等から、「意義」と「意味」が、音楽に担わされ構成的な音楽であり、「西欧」の音楽思想と、重い観念があることにも気づいた。あるいは、聴き手の自分に、「西欧」的な音楽思想と感性が出来ていることに気づいたと言ったほうが適切なのかもしれない。その価値観によって聴いている自分に気づきもした。それと同時に、サイケデリックの音楽をも聴いてはいた。何かしら魅かれるところがあったのが当時の自分であったのだろう。アイアン・バタフライやジェファ-ソン・エアプレ-ンのフィルモアのライブ、ヴァニラ・ファッジ、のキ-プ・ミ-・ハンギング・オン、かの伝説にまでなったイッツ・ア・ビュ-ティフル・デイは俺の中では「売れた」少しのヒ-ロでもあった。キャプテン・ビ-フハ-トの傑作「シャイニー・ビ-スト」に落ち着いたサイケデリックと立体的な音楽構成を持たない姿勢とその音楽構成というものを突き放したような無脈絡性に魅惑もされた。
サイケデリックに魅かれたのはうっとしい物語的な「意味」と「意義」に拘る社会に、また音楽にもうんざりもしたからでもあるのだろう。当時としては、全般的に若い連中は「反抗」に彩られて眺められ、「従順」であるとことも求められる「意義」も担わされた。大人は「秩序」だった役割ばかり求めると推定できる「世の中」であり、音楽もそのような「意義」の様相を学生運動の残骸のように呈してはいた。そんな中での処方の仕方をちいっとは知った。孤立の仕方も学んだ。構成的物語的「意義」を求める体勢的な音楽とそれに対する物語による反抗的な「意義」のある音楽。それらは、否応もなく、「意義のある」音楽であり、資本性に回収される宿命と可能性を存分に持った「娯楽」産業の大量の消費を前提とした生産物なのだ。それゆえ、いわゆる「売れた」ポップ音楽、売れる可能性のある音楽には、決まってヴォ-カルという「人」を感得させるに一番身近な表現項目が意味あり気に取り入れられているじゃないか。ヴォ-カルは、意味の伝達という意義を持った物語的役割の明確な音の媒体じゃあないのか。「反抗」も「秩序」もどちらも、うざったらしいくらいに物語的な「意義」を求めている。これは音楽の中にある「物語」に対する「異議」であり、資本性をまとった商品に対する「異議」にはならない。商品に対する異議と音楽の中身に対する思いは、当たり前であるが区分けし論議しなければならないが、当時はその余裕がなく、資本性があることが、物語的であるとごたまぜに考えていた嫌いが筆者にはあった。ここらの議論は、音楽としての在り方として続けられていいのだろうとは思う。
音楽がまた一般の「芸術」が禁忌すべき「商品」でありながら、その聴くこと/作ることにおいて、何故、「商品」ではない側面を持つのか。そしてその商品が、その中に、商品であることを拒否、矛盾することを盛り込むことが出来るという当たり前の矛盾、この致し方ない「矛盾」した感性的在り方。どうしようも解決の出来ない無い矛盾だった。これを解決する方法は、ひとつにはマルクスの、資本主義下での商品の捕らえ方だった。使用価値と交換価値、この抜き難い矛盾は、資本性だからこそ齎されるのだ。この資本性が、無効になれば、すなわち革命ができ、理想的に運営されるならば、この矛盾は、敵対的な矛盾ではなく、和解する矛盾に転嫁できるのだ、という単純な主張だ。
商品としての交換価値を高めるために、生産物は労働者から、資本家に委ねられ、交換価値を高めるように、資本関係はあらゆることを経営するものにも、労働者側にも強制していかざるを得ない。それが広告であり、広告しなければ、その商品は、交換価値さえ実現されず、市場から消えていく・・・。一方、使用価値は、この場合聴くという価値は、その内容的な問題があるとはいえ、ひどく感性的な価値に還元される。聴くに絶えることが出来る程の出来だろうか、幾度も聴くことが出来るのだろうか、期待に沿うのだろうか、様々な想念と思いが過っていく・・・。その使用価値が、感性的にも充溢したものであればその価値は実現されることになる。使用価値は、多く芸術的な価値を視覚的にも齎す。デザインがいいとか、凝った商品はやはり売れて欲しい。しかしながら、交換価値は、そこから剰余価値を生み出すために、いわば原価を安くしようという働きも齎す。そこで、制作する者たちに対して、それを要求することになっていく、人件費の割愛から、生々しいまでの「合理化」・・・。交換価値は飛躍的な「広告」の技術の向上とTVや新聞などの全国的なスタンダ-ド的な広告一元支配によって、使用価値を曖昧に、そして、イメ-ジに、過剰なそれらに置き換え、実体からかけ離れたところで流通、成立していくことになる。プロモ-ションビデオが流通し、流行が流行の中で、使用価値を離れて消費蕩尽される。確かにバタイユのいっているように過剰な消費は、死にまで至る恍惚をもたらすのだろう、そのありかと在り方においてはひとつの哲学としても確立されてもいい。しかしながら、それらは個人の「主体」としての価値観であり、個人の中でなされる位相にあり、交換価値と使用価値という「社会的」な運行には無縁の思考だ。これは思考ではなく、高度な大量消費社会の持ち込んだ、「感覚」であり、誘惑的ではあるが弛緩的な価値観だという視点も持ちうる。そうしたくすんだそして歪んだ価値観と思想さえも、許すことの出来る構造が、輻輳的に出来上がった「現代」の中にある、とも言える。消費、その中の、「哲学」に過ぎない。
話を交換価値と使用価値に戻すと、使用価値は聴く者たちの手中にあり、交換価値は、生産者側の手中にあり、両者は分化してしまっている、この関係を敵対的に持ちうるのが資本主義の関係であり、また、敵対的な矛盾の製造無限の侵攻だということ、だ。ここに、いい音楽が売れる音楽とならない、また売れる音楽がいい音楽とならない、至極当たり前な構造が隠されている。強いて言えば、この敵対した矛盾を、解放する、すなわち「革命」が実行されていれば、使用価値的「批評」ということも必要ないと断言できる。表現性のみに限って、批評が出来上がる「社会」が出来れば、「批評」は自ずと解体し、死滅するだろう。広告という、交換価値的な流言は、商品の紹介の機能しか担わないことになるだろう。
マス化した消費の革命---バタイユの「消費論」、ボ-ドリヤ-ルの「象徴交換と死」など---は、大量生産とその消費の中に、シュミラクルな世界まで齎した。そして、「個」であることを、決定的に排除するまでの、マスの「感性」を作り上げる。それが、ヒット・チャ-トである。大量の「感性」に支持されたヒット作。作家の側も、ヒットの構造に乗る音楽をあらかじめ想定して作り、「売れる」曲を作る「感性」も生まれ構造化された。これらを構造化し、経済的に支配しつつあるのは世界の五大レコ-ド会社である。1_ワ-ナ-・ミュ-ジック・グル-プ(親会社はAOLタイムワ-ナ-)2_EMIレコ-ディット・ミュ-ジック 3_BMGエンタ-テイメント(親会社はドイツバ-テルスマン)4_ソニ-・ミュ-ジック・エンタ-テインメント(親会社はソニ-)5_ユニバ-サル・ミュ-ジック・グル-プ(親会社はビベンディ-)である。これらが世界のセ-ルスの80%を占めているといわれる。この中で「ヒット」の構造に、流行という大量の消費が生産される構造に疑問を持った者たちが、英国ではラフ・トレ-ドから始まり、4ADやCreationなどのインディ-ズレ-ベルを立ち上げた。米国では、電波の「自由」化を背景に、学生の達の独自のマイナ-系のヒットチャ-トがCMJなどの形をとりもした。そうした「時代」もあり、またそれが跛行的に続いてはいるが、大多数の聴く側では、ヒット作を、知っていることが「流行」に乗り遅れないことであり、「新しい」という小さな革命に、乗り遅れないことの代名詞とまでなった構造まで持っにいたっている。そのような構造の中で、ロックは、ロックン・ロ-ルの「魂」を脱ぎ捨て「ア-ト」であろうとしたプログレッシブの姿も、パンク・ム-ブメントに剥ぎ取られロックの精神だけが、剥き出しにされた。アナキストに憧れた、パンク野郎、ジョニ-・ロットンは近ごろメジャ-に再復活し、「俺は、売るために、金のために、パンク音楽をする」といった挑発的捩れた言語をもって登場したらしい。もう少し気の利いた言葉を言えばいいのによ、と拗ねたこちらの「魂」が捩れたまま呼応する。皮肉屋、三島由紀夫なら、同じことを「金のため売れるためなどという、美しい目的のために私は音楽活動しているわけではない。活動が観念としてまた肉体としてあるかぎりその活動は、美しく醜悪であるだろう、」とでも言うのではないだろうか。「創作」活動が、否定的側面と肯定的側面を必ずもつということの、両義的な意義の表現的な言い回しが、なされるだろうに・・・。
そのロックの精神は、もともと危うい構造しか持ってなかったがゆえに消費構造に、大量の消費構造に抵抗はありながらも内実までも呑み込まれていった。あまりにもやすやすと抵抗を呑み込む資本の関係に因る支配力は、「魂」という「個」の在り方を、否定する。いや、「個」あるいは、マイナ-の在り方を、直接支配の及ばないところでは「自由」のもとに解放し、「自由」なる選択を保証し、「大多数」またメジャ---大多数であることは、本来、無名と素朴であることの代名詞であり、決して蔑まれた意義を持つものではないが、五大レコ-ド会社に代表されるような「巨大」なメディア的支配力の持つものによって「大多数」が形成されていることを忘れることは出来ない――の名を騙り、「個」の「大多数」の集散に努める資本の関係に回収され呑み込まむ支配感無き支配の「形」をさえ作った。ロックは、その原初的な「魂」――反体制的、反抗的であること――を忘れ、ロック的形式は残り、形式が消費構造の中に洗練されて快適なポップになった。1970年代にすでに、相倉久人は、「ポピュラ-音楽とは、単純な意味で、いわゆるクラッシク(芸術)音楽に対する通俗音楽や、教会音楽に対する世俗音楽をさしているのではない。創作の動機がどうであれ、メディアの介入によって商品価値が売れ行き(ポピュラリティ-)によって決定づけられる音楽の総称なのである。・・・ポピュラ-音楽とはメディア音楽である。」「メディア時代の中で、それとの関係を持つということは最終的には防ぎきれない・・・やっぱりジャズというのは徹底的にメディア化から逃げたんですね」「ロックはいつの間にか、既成社会に反抗する若者意識から、テクノロジ-社会の網の目に捕らえられながら、その中で自己実現を求める行為へと、焦点を深めていった」と言っていたという。
しかしながら、それらの大量生産とその消費の構造の中の足掻きと均衡――本来は和解的矛盾であるべきものが、資本関係によって敵対的な矛盾に転嫁している情況での人の動きのひとつ――は、何もロックという音楽だけに限ったことではない。68年の全共闘の解体から革マル派と中核派の「内ゲバ」闘争を経て、連合赤軍浅間山荘事件、東アジア反日武装戦線の「一流」企業爆破に至るまで、ソビエト「社会主義」と毛沢東「社会主義」、社会主義の分裂と帝国主義的錆び付きまで、そのような状況下で、「思想」が売れると言った「現代思想」の編集者三浦雅士、「中心と周辺」の山口昌男、「表層批評宣言」の蓮實重彦、「構造と力」浅田彰、などなどの数え上げればきりのない「知」という「流行」が、中心を失い混迷に、渾沌とした情況はどの箇所、分野にも及んだ。文化的には「セゾン」の消費文化が、都市部の「若者」を中心に、様々に影響を与えた、佐々木敦、中原昌也、阿部和重など30才代のパルコ文化人たちが活躍した・・・。今を時めく、レコ-ドレ-ベル「エイベックストラック」もディスコ・ハウスの踊リ狂うことの文化的うねりを背景に、生まれたのもこの時期である。経済的には、バブルの崩壊が、都市部を中心にセゾン文化、ハウス文化の退潮とひとつの「良質性」を残すフィルタ-となった。「娯楽」文化が選別されていく、都市部の大衆の「時代」となった。89年初頭にソビエト社会主義の崩落、90年のベルリンの壁の崩落、そして今現在の米国のグロ-バリズムの台頭に因る、マネ-資本主義による米国の価値観の支配が世界的に経済的にも政治的にも浸透しつつある。
そうした中に、シニシズム--表現者でありながら、その表現者の属性を否定する--は命脈を文化的にも価値を持ちうる。いや、文化的に価値を持ちうるものは、シニシズムであり、その価値観こそが、弁証的にも「正当」でもある、そうした情況と構造が私<たち>の現在としてあるのだ。シニシズムにおいて「希望の原理」(E・ブロッホ)は、命脈を持ち、ままたそこに掛けなければならない構造があると言ってもいい。シニシズムは、音楽のメジャ-のシ-ンにも探しだした。ロックンロ-ルでありながら、それを否定するロッカ-。ポップの孤高の詩人という評価を得ながら、ポップを否定することを歌うトム・ヨ-ク。93年にmunkiというアルバムの中で、ジ-ザス&メリ-チェインは、ロックンロ-ルの語調でI love rock'n roll/I hate rock'n roll .と歌った。トム・ヨ-クはPop is dead .と歌った。
革命が起きてない、起こしていないこの現代にあって、この観念と感性の矛盾にどうやって対応するか。捻くれものの筆者にはひどく問題でもあった。この観念と感性の矛盾を解決すると言う意味で、ひとつの聴き方として、シュミラクル――原形と模造の輻輳――として聴き取ると言う方法が、「現代」としてあるのだと、身勝手に考えることにしている。引き裂かれた、穿った聴き方としてあるのだろうと、ある諦念をもって音楽と向かっているのが、こっちの現在だ。こう言った観念的な聴き方を、とかく音楽人間とか言う人種は、敬遠するのは解っている。ましてや、批評などということになると作者から、基本的な非難が帰ってくるのは予想できる。断っておきたいのは、こちら側の「批評」とは聴く側の自らと向こうの音楽の現在の位置と、なけなしの思考の接線と掻き傷を共通に確認することが、その最大の意味であるということ、だ。この意味での引っ掻き傷を観念と感性に作れない、その範囲からの「脱構築」的な「逃走」ということが「現代」のうねりだ。そうであればこそ、言語による、拙いが意志の伝わる伝達メディアでしか伝わらない接線と引っ掻き傷もあるのだと「過剰」に思わなければならないのではないか。また、こうした観念的な、この場合、言語的に踏まえた形なしに、直裁的な「感性」とだけ向きあうということは、資本主義が定着した社会の持ち込む、自由主義的な観念――イデオロギ-――の習慣的、慣習的媒介による「感性」支配に嵌まり込む上滑りの「危険」がある。その自由主義的な観念連合の支配は誰も逃れることなどできないが、そしてそれが、時に文化的には、秀でた結晶を持つことも逆説的偶然的にもある。しかし、その「危険」から距離を置くことになるひとつの方法ともなるだろう。とりあえずも、「批評」と「思想」の問題を書き言葉に持ち込むことは、思考する主体の主体提起問題であると同時に、現代資本主義の自然に齎す、ゆるやかな、しかし本質的な侵攻に対する「秩序」的な「反抗」と「反立」でもあるはず、だ。
イギリスポップ世界の孤高の詩人、トム・ヨ-クはPop is dead .と歌った。商業主義的な音楽の死を言い募りながらも、商業主義の波に乗りながら逆流を占めそうとすることは、ロックでさえがポップになった、そして誰もがロックの音楽形式をポップの中に耳にするようになった、この時代に、極めてシニカルに響く。それは輻輳し混濁したロック音楽の状況においてこそ、相応しい腐りきった音楽の死の状況を逆説的に映し出す。この逆説の状況の認識を持つならロックは現代のシュミラクルでありながら、現代の批評とは関係なく作者の趣旨とは別物にシュミラクル的に、消費蕩尽され、そして新たな潮流を求めるシュミラクルとして待つ命運をも持ってしまったことになる。ポップは、原作のシュミラクルとして死に、模造としてのシュミラクルとして生きる。
マネ-資本主義は、マネ-が描く非物語的な行為である。マネ-資本主義は、ものとしての資本主義とほぼ交差しない世界であり、それ独自の動きと累積を、今現在も作り、実態経済を遥に凌ぐ規模で、政府や国家、また中央銀行といった旧来のコントロ-ル機関では支配できないほどに肥大化し、それを体現している。もの的な生活とは全く別物に虚構的に動き回るマネ-の交換可能性は「虚構」のシュミラクルの世界だと言っていい。そして、その内側で「芸術」のシュミラクルは「形式」の交換可能性の側面で、原作と模造の交換と錯綜をつきることなく「虚構的」に作り、人々のコントロ-ルを不可能にするまで、肥大化し、輻輳している。メディアの流す広告から番組まで、そして、音楽も、シュミラクルの蕩尽の大量生産と消費を、体系からの逸脱、脱構築として生み出してしまった。この現代社会は、明らかに、私<たち>の具体的な生活とは切り離されて、縦横無尽に、マネ-と虚構のシュミラクルの大量の生産と消費を、無尽蔵なまでに死と再生を、繰り返している。ロックという音楽、メディアからの自由のない音楽の「現在」的な意味とその位置が不明のまま、今日まで、その<死>と<生>を聴くように仕掛けられている、しかもマネ-と虚構的なシュミラクル的な相貌の中で。
私<たち>は、このシュミラクルを聴かされているとすると、途方もないシニシズムに臨むことになる。原作に対する信仰を持つかぎり、その音楽のル-ツに対して、ある種の「敬意」と羨望を描かなければならない。ブル-ス、ジャズ、ロックン・ロ-ルは「黒人」からの借りもので、ル-ツはやはり「黒人」だといったような、ル-ツをたどり、そこから、今の音楽を軽視するやり方だ。模造は、原作に対して、引け目を持っている。資本主義の音楽の大量生産と消費は、この引け目を、模造を作り続け、原作に対する郷愁、敬意をづたづたに切り裂きながら、模造を原作よりも、受け入れやすい形に変形し、大量に生産し、消費に向かわせる。そうしなければ、業界そのものが生き残れない。この生き残りを掛けた業界からのシュミラクルは、模造であると同時に、原作でもあり、この連鎖は、果てしなく続き、かつ、果てしない範囲にまで及ぶ。この運動を、私<たち>は止めること、逆流させることなど決してできない。そのような思いは、途方もない絶望感と諦念を、それを願うものに結実させる。絶望感と諦念に陥リながら、シュミラクルを迎えなければならない。この諦念と絶望感は、トム・ヨ-クのPop is dead .や、ジ-ザス・メリ-チェインのI love rock'n roll/I hate rock'n roll .と似通ったシニシズムの位置と同じ、だ。
「売れる」ということは、決して「知れ渡る」ということ同じではないが、時として一致する場合もある。「知れ渡る」その結果が、「売れる」「売れ続ける」結果となること、そのまともな構造が、そして、そうあろうとするその意志という観念が、成立するだろうか。私<たち>の高度な資本主義社会では「不特定多数」相手にするかぎり、その観念と構造が成立することは神を作るに似た傲慢な偶然だ。作家が、売ろうという意図のもと作ったものは、やはり 詰まらないものになる結果を持ちやすいという認識が、当然にも成立する。この認識は、「評価」性にはまた「批評」性には必要かつ十分ななことでもあるが、「不特定多数」が相手では、また成立し難い。そして、その批評性は、決して単一のパラダイムでは、なされないように観念しなければならない。さまざな視点とそれらの深度と屈折によって、それは保証され、はぐれた体裁も持っていなければならないほどに複数性と輻輳にあるべきだ。単なる一個人の「批評」では、この複雑な批評性は決して担保されない程に「構造」は複数性を持ちまた流動的でもある。この構造に表明を通して「参加」する、脅迫性さえ持っているなか、多くのものが、「批評」を「思想」を公表すべきだ。多くのものが、「現代の資本主義社会」の内部を告発すべきだ。外部からの解体を喧伝すべきだ。多くのものが「現代の資本主義の敵対的な矛盾」を解体すべき「批評」性を「思想」性を持つべきだ。そしてその「批評」性の向こうにある、<本質>に向かうべきだ。そのような構造の情況が、ポスト・モダンの状況が、シニシズムであると同時に、ダイナミズムを備えた状況であり、言語である批評する私<たち>の現代位相にあるのだ、と考えなければならない。
「もっと多くの人がシルクスクリーンを使って、しまいには、僕の絵が、僕の作品が他の奴のか誰にもわからなくなったらすばらしいだろうな。誰もが機械であるべきだ。誰もが僕に似ているべきだ。」アンディー・ウォーホール大量生産・大量消費によるほぼ区別のつかなくなった、オリジナルと模造。「作品」というオリジナル性、作家性の無効性が、保証される、それと同じく、大量の生産と消費が「芸術」的に繰り返されえる。そしてまた模造品との区別のつかない原作の大量の生産と消費、すなわちシュミラクルの志向性を表している。ベンヤミンにあっては、複製技術とは、「アウラ」の、芸術作品に対する礼拝的価値の無効化を齎すものとして位置づけられてはいたが・・・。それら芸術に対する跪拝に似た接し仕方は、近代的自我の、また作者という掛け替えのないオリジナルであること、「個性」的であることに対して、礼拝的であり、また、至上性を認めることにある。近代思想は近代の自我、人がオリジナルであることに、重きを置く思潮であり、この思考方法を背景に、オリジナルである作品、誰にも似てはいない作品、独創性のある作品、感性豊かな作品、に価値をことさら認める「芸術」の「評価」の方向が決定づけられた。それが芸術の価値としてあったし、また、いまもってその「知」の支配から私たち「大衆」も逃れてはいない。この近代「知」の在り方は、私たちのありきたりな生活の中にも見て取れる、類型的なイデ-、これらと対応した人のあり方、ウォーホール的言葉を借りて、それは極めて「人」のあり方をめぐっての資本主義の大量生産・消費の行き着くところの皮肉な逆説的主張でもある。近代の自我の信仰に対する、痛烈な批判であると同時に、大量消費社会の「ひと」の存在様式の側面を適切に形容してもいる。すなわち、工場から生み出される生産物ばかりが、大量生産と膨大な消費にささえられるばかりでなく、芸術という作品についてもこの大量生産と消費は覆い尽くし、そしてその有り様は、「ひと」という「基本的人権の尊重」という近代の擬制である「尊大」なものまでも、蕩尽し尽くすまでに至っていると言える。模造品と原作、コピ-とオリジナル、この近代の思考にあっては、明らかな区別が、また価値の付け方の思考法方が、大量なマネ-資本主義の持ち込んだ思考によって解体、崩壊させられる。すなわち、旧い一万円札と新しい一万円札は価値の上で、等価である。この区別が全く必要ないことを前提とするマネ-的思考によって、近代の自我に対する信仰は、崩壊する。オリジナルとコピ-の、原作と模造品の区別を認めないシュミラクルの「知」が、世の中をまた大衆を、表層的に支配していくことになる。アイデンティティの自らの倒壊現象が、大衆のまた、私<たち>の表層を被っていく・・・。
音楽は、エリック・サティの「家具の音楽」という、私たちの生活とそれほどにもたがわずに、よこしまではなく、あるべきだとした音楽の理論によって、交響曲やオペラに代表されるような西欧的な構成的、立体的な音楽が総てではないとする視点が齎された。現代になって、特にジョン・ケ-ジが、「家具の音楽」環境の音楽によって、旧来の音楽の死を唱え、それと同時に、実験音楽の作り方/聴き方の呈示をもした。旋律とリズムによって成立していた「西欧」の「知」が捕らえた音楽の在り方を解体的に踏まえた「家具の音楽」は、1960年代に、ケ-ジとその一派(ア-ル・ブラウン、デイビッド・チュ-ドア、ら)によって理論的言語的に再確認、呈示された。「家具の音楽」はそこにある環境の音に注目することを私<たち>に諭した。ケ-ジは一般に考えられているほどの主張の強い理論、理論のための理論を言い募ったわけではない。彼は、今までの音楽の構成的、立体的な音楽に異を唱えたが、その西欧的文脈でしか音楽に接しないことの否定、ある主題の基に物語が出来上がり、主題が再現されているかによって、その評価が下されることの対極としての「家具の音楽」、そして実験音楽にごくありきたりな関心と探求心を抱いたに過ぎない。それゆえ、彼は西欧的な音楽の文脈に無いもの、それを「創造」したのではなく「認めた」のであり、独創性のある音楽、近代自我の代名詞である「芸術」の構成、それらの解体を、「音」を媒介に実験していったのである。この実験音楽の方向は、「音」の発見に、雑音が、ノイズが、「音楽」でもありうることを認め、また、環境が音楽であるとこともあるとする思考-姿勢、聴衆にとってはその聴き方-を現代音楽界にも齎した。それと同時に、音の、あらゆる方向からの改造、また加工に、コラ-ジュに、デカルコマニ-に、フロッタ-ジュに、サンプリングに、道程を披ききることも実験的にも示した。ケ-ジの理論に出会って、その音楽の端くれに出会って、筆者は、そういった音楽の聴き方をもしてきたわけである。その文脈でとりはかること、西欧的な、構成的な、立体的な、それだけの「聴き方」から解放されたと同時に、西欧の音楽文化は、音楽から音に向かっていかなければならないとまで、考えてきた。期せずして、その聴き方/音楽の作り方は、70年代後期にジャンル的な言い方をするとロックの中にあるアンビエント・ミュ-ジックに引き継がれた。そして、また、ポスト・モダニズム、文化人類学的「知」が主導となって生まれた。相変わらず、メジャ-の音楽、流行する音楽は、「西欧」のリズムと旋律の音楽が基本であり、精々あってもエスニック的な関心による大部分のワ-ルドミュ-ジックのような薄っぺらなものがあるぐらいだろうか。音楽の地域性の思潮が「西欧」的、メジャ-レ-ベルが好む感性によって構成され、排他的独自性も持っていない大部分のワ-ルド・ミュ-ジックは、「西欧」の価値観に彩られたものが主流とならざるを得ない構造と傾向を持ってしまう。そのポスト・モダンの意味でもpopもRockも死んでいるが、あらゆる「音」を飲み込み混濁と渾沌に塗れていく可能性が強いのもRockとpopである。相倉久人が述べた意味で、それはメディア音楽だからである。そして、「リズム」の意匠が、現代音楽とはまた位相が違うからでもある・・・。
「近代の自我」は、エリック・サティの「家具の音楽」の環境とともにある「音楽」では、自我への信仰が溶解する。家具に対して、それを使うものは誰がそれを制作したのかには、全くといっていいほど注目しない。制作者は、作家は、無名のままであり、制作者は「私である」という自我の信仰とは無縁である。制作した自我を前提とした、押し戴くようなことを強制することはほとんどない。家具によって、一般に、私たちは生活の不備を持つものではない。家具に対する自我への信仰を以て、接することなどないのだ。家具であろうとする音楽に、「アウラ」という礼拝的価値と跪拝など宿ろうはずはない。
自我の思潮、つまりは、その描く景色を、心象を、再構成するように聴くように仕向ける音楽行為は、制作者の自我の思いと意義付けの方向に、シナリオが描かれている。それに乗っかっていく、聴く側の自我。それはサティ経験のないクラッシクの交響曲の構図によく見られる、「意義」のある、価値のある音楽である。サティ経験のないクラッシックの会場では、聴衆はその「意義」に裏打ちされる音楽を聴くことになる。「啓蒙的」な音楽であるといってもいい。音楽を媒体とした存在どうしの在り方、の肯定ではなく、聴衆という聴かされる構図の肯定である。「環境音、雑音は、世界中の音楽文化によって作り出された音よりも、美的な意味で役に立つ」ケ-ジは音楽の偏在の肯定をした。そしてそれは、裏返して言えば「自我」という、「ありもしないもの」(ジャック・ラカン)の精神分析の思潮にも通じるものでもあった。
しかし、それらは、「革命」などからほど遠い、さらには「改革」などもことも持ち込むこともない動的な運動性からひどく遠い言辞として「社会的」「政治的」には機能する。
2002年3月28日